1998年のデンゲー

創刊当時の電藝掲示板(今のビビエスではない)に掲載されたコメントを最小限の編集を加えた上で掲載してみようと思う。ダイヤルアップかISDNが主流で、インターネット人口が爆発的に増えていくところだった当時、創刊メンバーはかなりこの掲示板というオモチャ=メディアに魅了されており、それぞれの就業時間中も関係なく、のべつ書き込んでいた。 ……しかしながら、投稿者に無断の掲載であるゆえ、ゲッとなるメンバーもいるかもしれないので、編集長以外の投稿者名はイニシャルで。

2005/02/21号掲載

K(98/11/10 17:55:19)



ゆで卵
辺見 庸



眼の探索 屈せざる者たち 独航記 自動起床装置 赤い橋の下のぬるい水

by G-Tools



昨夜、テレビを見ているととなりで妻が朝食に使うためにゆで卵をぽくぽくと潰していて、その臭いをクサイと思った瞬間に辺見庸の『ゆで卵』のことを思い出した。

実は私は『ゆで卵』という作品はよくないのではないかと思っているのですが、その理由は以下の通り。

この小説のミソは、ゆで卵の臭さと女のあそこの臭いと地下鉄サリンの事件の当日に嗅いだサリンの微かな臭いとを重ね合わせているところにあって、地下鉄サリン事件という大きな社会的事件を扱いながら、あくまでも肉体的感性的レベルから離れず、そこに執着するというところに主張があるのでしょう。男はしたたかに酔った徹夜明けに事件に遭遇し、その後、愛人の家に転がり込む。この小説で、象徴的な敵として描かれているのは、事件に遭遇したときに助けた被害者の外国人(西洋人のチーズ的腋臭がする)を道に座らせて横でタバコを吸っていると、病人の横でタバコを吸うのは止めなさいと非難するオバサンであると思われます(竹中が荒木をモデルにして撮った映画(『東京日和』でした?)で地下鉄の中で写真を撮っていると変態だと言って警察に突き出すオバサンが出てくるけれど、これも同類でしょう)。
 
抽象的な正義に対するファシズム的傾斜に対して生理的に嫌悪を感じるというのは、動機としてよーく理解できる(この辺の感性は桜井哲夫にも通じるのかもしれない)。けれども、思うに作品としてこの小説に難があるのは、背景となっている地下鉄サリン事件が描かれていないというところだと私は思うのです。あくまでも地下鉄サリン事件が対照物としてあるからこの作品は成り立っているのだと思う。にもかかわらず、地下鉄サリン事件自体は抽象的なままだ。これはやっぱり問題だと私には思われます。

男と愛人は事件の翌日、愛人の思いつきで近くのお寺に被害者の供養に出かける。お参りの後、女は男を墓場に引っ張っていって、そこで事を交える。墓の陰で、女にのしかかりながら見上げると暗闇に東京タワーが巨大な灯明のように浮かんでいるというイメージは『アンダーグラウンド』的猥雑さで、中でも悪くないシーンだと思いました。

吉田(98/11/10 13:16:30)

SlappHappyの新譜「ca va?」を買いました。古い録音のものを拾ったりもしているのですが、なんと新曲もあります。詳しいクレジットはないのですが、オリジナルの3人しか参加していないようです。というか、3人で全部やっちゃったみたいですね。

これを機に来日しないかなあ、と思っています。出来は、なんだか暢気な感じであまり感心していないのですが。

原稿ですが、最近疲労がはげしく、休日まで待ってください。この前の休日はPTAの運動会と七五三で終わってしまいました。やれやれ。

K(98/11/10 09:51:32)

『トレインスポッティング』は僕もどうってこつないなと思いました。感心しないというほどでもなかったですが。ウッディ・アレンの『世界中がアイ・ラブ・ユー』を見ましたが、これはなかなか良かった。ああ、がんばっているなあ、とホッとした気分になるのは、どういう訳なのでしょうか。
 
原稿にあるとおり、『心はどこへいくのか』とかいう大澤真幸と町澤静夫と香山リカの対談集を読んで、いま桜井哲夫の『思想としての60年代』を読み始めています。どうもあんまり好きになれないんですけれどね。この中に「『魔球』はどこへいった」という日本野球論が出ています。

Y(98/11/10 01:09:25)

Kさん、それはわかります。ただ僕は、サッカーに対するイメージを、その「黄金の瞬間」以前のものとして、強く持っているのでしょう。「持ちながら立っている」、ああ、いいイメージですね。でも、どうも僕の場合、その手前の、ボールを追っかけてる時の方が、サッカーなんですね。

そこを、転換しなきゃいかんのだな、俺は。

ところで、今日は予想外の残業で疲れてかつ酔っぱらったのでとりあえずパスして、僕も明日かあさってに、原稿を出します。

K(98/11/09 11:51:55)

Yさん、まさにそこがポイントだと思うんですけれどね、確かにサッカーは足下でボールをコントローする事が基本なんですが、ボールを持ったときに、どれだけ周囲を見渡せているかが、多分、あるレベル以上になったら、ボールのコントロール以上に大切なんですよ。

だから、サッカーが出来る人は、ボールを持ちながら、体が立っている。この姿勢が、多分サッカーの基本であるだろうと思われます。
 
原稿書いたぜ。えばれることではありませんが。

Y(98/11/08 23:03:53)

T氏が子供の頃やっていたそれも、立派な野球だろうと思う。僕が子供の頃家のブロック塀相手にやっていた一人遊びも野球なんだろう。

ところで、僕が野球に惹かれる一番の点は、静と動のメリハリかも。特に張りつめた大一番での静の時間の緊張感。「9回裏ツーアウト満塁カウントツーエンドスリー、さあ、ピッチャーセットポジションに入った」の世界。この静と動のメリハリについて、大学時代誰かが野球を相撲と結びつけてサッカー狂の人を相手に飲み屋で大論戦をしてたことがあったっけ。(僕じゃないよ。)

でも、この「静の緊張感」がある人にとっては逆に「退屈な時間」になるようで、昨日「観るスポーツとやるスポーツ」の書き込みをした後、うちにアメリカの人が遊びに来て、やはりたまたまスポーツの話になって野球はボアだと言われてしまった。僕の書き込みと全く反対に「サッカーは観るスポーツ、野球はやるスポーツ」と、先にケロリと言われて、「はあ、さようで・・・」という感じ。

で、早速その後、今我が家で大ブームの10年前のファミスタで、プロ野球OBチームと大リーガーチームの日米野球をやって、勝ったのだった。万歳。

ところで、サッカーって基本的には足元に視線を落としてやるスポーツだよね。一方野球は「月に向かって打て」なんて、月まで相手に出来るわけで、空間的な膨らみがあるようにも思ったりして。

ほんとはどっちでもいいや、と思ってるのにここまでつなげていくと、さて、ならばサッカーと野球とどちらが文学的であろうか、などと話を展開する人がいても面白かったりして。

ところで皆さん、やっぱりまだ原稿は出さないの?(「ところで」が3回も出てくる書き込みでした。)

T(98/11/07 23:40:27)

K君、先日は『アンダーグラウンド』についての質問に答えてくれてありがとうございました。ぼくはあの映画の祝祭的雰囲気がなかなかいいと思います。

音楽がしばらく耳について離れなかった。

同じ時に『トレインスポッティング』という映画も見ました。高校生に人気あるんで。

私の友人も、音楽はぼく好みだからいいと思うなどと言うし。

でもぼくはあんまり感心しなかったなあ。音楽もジョイディビジョンとか使われていると言われたが、あんまりよくわからんかった。

T(98/11/07 22:55:11)

子供の頃の草野球の快感というのはよく分かる話です。

ぼくも小学生の頃はよく草野球をしたし、それはとってもおもしろかった。心が溶けるほど。

ぼくのところは田舎ですから、フィールドは田圃(冬の場合)だったりした。ボールは軟式テニスのボール。バットは切り出してきた竹か、縁の下に捨てられていた鍬の柄だったりした。

冬の田圃は刈り取った後の稲の株が残っているから、打球はイレギュラーばかり。その不規則なバウンドが換えっておもしろかった。

あるいは家の庭でやったり。屋根の上を越したらホームラン。田舎には屋外に便所があるのだが、そこの小便器にたまに入ってしまうことがあって、そうなると一気に3アウト。さらに罰としてボールを水で洗わなくてはならない。

まあ、こういうのはホントの野球ではないのかも知れませんが、ぼくはほんとに夢中になってそういう野球をしていた。そこには爽快感があった。開放感もあった。

もちろんバントなんてしない。ひたすらバットを振り回す。ベンチからサインが出るわけでもない。セオリーもない。

そうしたものがスポーツの原点なのだろうと思う。
 
玉木正之というスポーツライターがいて、日本の何人かの監督は、野球を「仕事」と呼ぶと言っています。2番バッターは2番バッターの仕事をしろ——というような言い方。その筆頭にあげているのが広岡達朗であるのですが、ともかく、それは子供の頃の草野球の世界にはふんだんに漂っていた爽快感や開放感とは異質の世界でしょう。

おそらくいまだにメジャーリーグの野球にはそうした爽快感や開放感が横溢しているのだろうし、そうしたものを求めて最近は何人かの日本のプロ野球の選手がアメリカに渡って行っているのだと思う。

玉木正之は、野球の始まりは「プレイボール」であることを再確認すべきだろうというようなことを言っていたと思います。それは「仕事」の対極にある世界だという認識。

ところでいま広岡達朗の名を思わず挙げてしまいましたが、この間書いた「引退した監督の書いた本がビジネス書として読まれる」ということで頭の中にあったのは、広岡達朗と川上哲治と森昌彦と野村克也でした。

それらへのアンチ的存在として、権藤博や稲尾和久とかがいてくれるような気がしていて、だからこそ今年の横浜の優勝は嬉しいわけですね。

日米野球を見ていて、サミー・ソーサが、1塁へのファールフライで2塁から3塁へ一生懸命タッチアップで走ったのを見て感動しました。

2005/01/17号掲載

Y(98/11/07 16:47:28)

なるほど「空いたスペースに走り込む」というのは何か良い比喩的イメージですね。そう、確かに野球にはそういう感覚はないか・・・、と、一瞬思ったけど、でも待てよ、自分が子供の頃やってた草野球の一番の快感はバットを思い切り振って三遊間を破るだとか、「空いたスペースに放つ」ではなかったか、などと思ったもりして。
まあ、とにかく、別にサッカーが嫌いな訳じゃないんで(小学校では学校のサッカークラブに入ってたぐらいで)、機会があったらまたやってみたいなあ、と、金水氏が羨ましくなったりもするのです。
サッカーは野球以上に「観るスポーツ」ではなく「やるスポーツ」ではないでしょうか。その意味では、南米のように普通の人たちが当たり前のようにゲームを楽しむようにならないと、その国の頂点のリーグも盛り上がらないのかな。

  やってこそ 初めて分かる 観る楽しみ

な〜んてね。(くだらな〜い。最近仕事で俳句を読む機会が多くて、思ってることがすぐ五七五になっちゃう癖があるんです。)
「サポーター」というものにあまりに力点を置きすぎるJリーグの陥穽に思い及ぶ次第です。

それにしても皆さんの原稿はどうなってるんでしょう。
今週末あたり、ぼちぼち出していきませんか?

T(98/11/05 23:13:14)

たとえば野球を語る場合、一番バッターは手堅く塁に出てそれを2番バッターが手堅く送って、3番4番でランナーを返すというようなイメージが振りまかれていて、そうしたイメージが企業の管理者たちに好まれるという感じがあるわけです。
それが野球の比喩として成立してしまう言説空間っていうんでしょうか、そういうものがあるような気がします。
そういう意味で権藤野球の勝利は本当に悦ばしいことで、ぼくも嬉しい。
だいたい権藤という人は近鉄のピッチングコーチをしている頃から大好きで、ぼくは何故か野球ではドラゴンズを応援していたもので、ドラゴンズの監督をやってくれないかななどとおもっていたものでした。近鉄の前には確か中日でコーチをやっていた時代があったはずだから。
ところで、サッカーの場合、金水氏が図らずも書いたように、空いたスペースに走り込むという動きがあって、それがサッカーのひとつの比喩的イメージになっているような気がします。これは、先ほど述べた野球の比喩的イメージとは一線を画するイメージだと思うのです。ぼくにはこれが気持ちいい。
もちろん、これは野球の比喩的イメージの問題であって、実際の野球的肉体とは無縁の話であろうかと思います。
そうした野球の比喩的イメージからの脱却を切望する向きもたくさんあって、かつての草野進の野球論などはそうした展開だったと思います。

K(98/11/05 11:49:54)

さて、『アンダーグラウンド』はユーゴ出身のエミール・クストリッツァ監督の作品。この監督は『パパは出張中!』という映画でカンヌのグランプリをとっていますが、私は未見で、監督についてはあまり良く知りません。映画は、旧ユーゴスラビアの歴史を背景に描かれていますが、同じ時期にテオ・アンゲロプロス監督が『ユリシーズの瞳』で、ハーベイ・カイテルがバルカン半島をさまよう映画を撮りました。僕は、個人的にフランスの会社に旧ユーゴ出身の人(父親と母親がそれぞれクロアチア人とセルビア人だったと思う)がいたので、旧ユーゴスラビアのことが気になっておりました。
『アンダーグラウンド』と『ユリシーズの瞳』はある意味好対照の映画で、『ユリシーズの瞳』が表現をミニマルに切り詰めていくような映画だとすると(表現形式としてその手法の極北はモーリス・ブランショかと思ったりするのですが)、『アンダーグラウンド』はグロテスクなまでにボリューム感のある要素のごった煮で、一方は欠如していて、一方は過剰だという感じです。 『ユリシーズの瞳』は失われた映画のフィルムを訪ねてバルカン半島をさまようという物語ですが、それで思い出したのは(本当は順序が逆ですが)スティーブ・エリクソンの『彷徨う日々』でした。しかし、スティーブ・エリクソンは、この分類でいけば、クストリッツァの方に入るでしょうね。一部ではガルシア・マルケスに比されているようでしたが(魔術的と呼ばれたりする怪異なイメージに満ち溢れている)。 
『アンダーグラウンド』は最初は騒々しいと思いましが、そのうち説得されてしまいました(その騒々しさというのは、ちょっとフェリーニに似ていますが、フェリーニが叙情的だとしたらクストリッツァは叙事的です)。最後の川のシーンでは、ジャン・ビゴの『アトランタ号』を思い出して、涙ものでした。

K(98/11/05 08:50:21)

久しぶりに盛況で私はとってもうれしい。
それで、さらに焚付けちゃいますが、「知的階級が野球を見下しサッカーを論じて」いるかどうか、私はよく知らないのですが、私にいわせると、知的階級であろうとなかろうと、野球とサッカーを比較したら、サッカーの方がよっぽどさわやかでかっこいいと単純に思うんですよね。
それは、Y氏のいうように、野球の歴史が背負った不幸なのかもしれないけれど、であるとするならば、野球の歴史を越えた魅力を賞揚していただきたいと思いますね。

一時、草野進とかが野球の評論をしていたときに、私は蓮實さんにもあなたは野球を見ますかと聞かれたことがあったけれど、私はどうしても野球は好きになれなかったですね。そういう意味ではいま私にはある種の開放感がありますね。野球について別に語らなくてもいい、という。

先日、サッカーの試合に実際に出てみて、ボールのコントロールなんて、全然出来ないし、ボールを蹴っても(蹴る時点で体が止まってしまっているからかもしれないけれど)ボールはぜーんぜん飛ばない。したがって、パスはまったくつながらない。
けれども、面白かった。
何が面白かったといって、この年になっても私の取り柄はひたすら走り回っていることで(お陰で体はいまだにボロボロなのですが)、そうすると、ボールの飛んでいく道筋が見えてくる。そして、スペースにいる敵の前に出て、パスの道を潰したり、敵のいないスペースに飛び込んでいくと、そこにパスをもらったりできるようになる。特に、スペースに飛び込んでいって、パスをもらえて、さあ前はもうゴールだ、っていう瞬間なんて本当に楽しいですね。
もちろん、素人目に見ても、権藤野球の勝利は悦ばしいことのように思えます。

私は正直言って、巨人・大鵬・卵焼きで育った人間で、野球でいうとどうしても巨人の動きが気になってしまうのですが、ものごころついてさすがにどうしても巨人を応援しているのがいやになって、どこかよその球団を応援しようと思って、一時近鉄を応援していたのです。ところが、近鉄の監督が、仰木から鈴木に代わって、これまたすっかりいやになってしまった。
最近、キャッチャー出身の監督とピッチャー出身の監督の話題が出ますが、鈴木はピッチャーでしたからね。あの人は単にアホだっただけかもしれないけれど。

私は個人的な理由で、吉田が嫌いだったから、阪神の監督が替わって、とりあえず良かった。野球にとってはいいことかどうか分かりませんが。

Y(98/11/05 00:19:08)

さらにまた、南米などで試合中にサポーターが殺し合ったり、ワールドカップでイギリスのフーリガンがフランスに侵攻したり、はたまた、いつぞやテレビのインタヴューでやってたんですが、フランスかイタリアか、どっかの国民に「あなたの生き甲斐はなんですか」と質問したら、「サッカー観戦」と本気で答えた人が数十%いたとか・・・、そういう世界のサッカーとの関係と比較して、(これは横浜のサポーターがいたら少々怖い発言なのですが)今回のフリューゲルスとマリノスの騒動なんか見てても、サポーター達の怒りのシーンとかのテレビレポートに僕なんか、どうも鼻白らむものがあるんです。「おいおい、本気で怒ってンのかよ、だったらテメエらスペインのどっかのクラブみたいに自分たちであらん限りの金出してフリューゲルスを運営しろよ」と。チョーギンさえ、チューオーコーロンさえ潰れるこのキビシーご時世に、企業に甘えてモノ言ってんじゃねーよ、と。つまりですね、僕が想像するに、結局この国では、サッカーだって今のプロ野球みたいな「社会の縮図」になっちゃうんじゃないの、ということです。それが嫌で、中田は向こうに行ったんじゃない?で、もちろん分かってます。Tさんの言ってるのは、スポーツそれ自体の形態としてのサッカーと野球の本質的な対比だ
ってことは。でもね、最近「知的階級は野球を見下しサッカーを論う」という「雰囲気」が、どうも世間に漂ってるようで、それが僕には解せぬものがあるのです。そもそもスポーツの形態としても、現実にはサッカーが野球よりもはるかに(K氏曰くのポストモダン的な)選手の自由度があるとは思えないんですけど。ただ管理された人間が同時に動くか部分的に動くかの違いじゃないの? そういう意味じゃたった独りで勝負するマラソンだって、あるレベルから上の世界は、いろんな人間に管理された結晶みたいなもんだしね。
そういう意味でも、権藤野球の勝利は、とても嬉しかったのです。
嗚呼、野村阪神はどこへ行っちゃうんだろう。
ところで、こんどの全日本サッカーの監督は、広岡顔負けのもの凄い管理主義者なんですよね。(こういう振り方が、スポーツを腐敗させるんですよね。スミマセン。)

2005/01/10号掲載

Y(98/11/04 23:42:41)

もちろん、もちろん分かってるって。だから「ゲームとしての野球の話じゃないんですが」とことわったのです。確かに、野球が管理社会の比喩として扱われている不快感は、全く同感。ただ、日本の社会と野球文化(?)みたいなものが平行して歩んできたように見える戦後の歴史を思うと、ショーがナインかなー、とも思ったりして。ただ、一言言わせて貰えば、ヨーロッパのクラブなんかと違って、日本サッカー協会なるものも、僕にはソートーに管理主義的なイメージはあるのですが。

T(98/11/04 23:33:51)

この間、『アンダーグラウンド』っていう映画をビデオで見ました。ユーゴスラビアが舞台になっている映画です。監督の名前は忘れました。
K君。あの映画について何か知っていることがあったら教えて下さい。
ぼくはかなりおもしろい映画だと思いました。

T(98/11/04 23:31:17)

キャッチボールが偉大だというのはそれはそれでよく理解できることで、なんら私の見解とぶつかりませんよ。
ただ社会に流通する比喩としての野球とサッカーを比較すると、野球的比喩が象徴してしまう世界ってあるとおもうんですよ。野球の監督が書く本がビジネスマンによく読まれるとかってあるじゃないですか。そういうこと。
あれはいやだなと。
だいたい管理術の話だったりしてね。
でも、サッカーの比喩が表す世界ってそれとはちょっと違うと思う。
ちょっと強引な展開かな。
ところで、鹿島対磐田は1-0で鹿島が勝ちました。得点が入ったときはスタジアムが震えた。これは比喩ではありません。
今日、中村敏雄の『スポーツの見方を変える』っていう本を買ってきました。この人はスポーツ学の方ではかなりすごい人です。

Y(98/11/04 23:22:37)

どうしてこう俺は、電藝の趨勢と逆行っちゃうんだろうね。このところ、サッカー優位論が展開されていますが、ゲームとしての野球の話じゃないんですが、2週間前の土曜日トイザラスで野球のグローブを発見した瞬間からムラムラと息子どもとキャッチボールがやりたくなって、初めは「クリスマスに買ってやるぞ」と言っていたんですが、そう言ってる自分がどうしても欲しくなって、結局翌日曜日になけなしの小遣いから大枚はたいて俺と息子二人分、計3つの本格的な革のグローブと軟式ボールを買って、早速広い公園でキャッチボールをやったのです。それが、予想通り、いや、それ以上に良くって、あの軟式ボールが革のグローブに入る瞬間の「ピシッ、ピシッ」ていう音が、もう、たまらない! なんとも言えない快感なんです。俺は思わずその日の日記に書きました。「キャッチボールは偉大である」と。以来、ここ数回の休日は、幸い天気も良かったので、毎日子供とのキャッチボールで半日を過ごしているのです。キャッチボールって、何時間やっても、なぜか不思議に飽きないんだよね。結構汗かくし。俺はキャッチボールに目覚めた。キャッチボールは究極のスポーツです。

K(98/11/04 13:51:15)

辺見庸の「ゆで卵」と宮部みゆきの『理由』を読んで、ジョン・ウー監督の『フェイス/オフ』とウッディー・アレン監督の『世界中がアイ・ラブ・ユー』を見ました。
「ゆで卵」については、またゆっくり書きます。ウッディー・アレンが面白かった。

K(98/11/04 13:45:15)

サッカーと野球を比べたら、サッカーの方が、ポストモダンで面白い(と、いい加減なことを書きますが)と思うのですが、その理由の一つは、攻撃と防御が相互浸潤的に目まぐるしく交替して、基本的にゲーム中は選手は勝手に思うように動いているというところでしょうか(野球の場合は、攻撃と防御とそこでの各選手の機能ははっきりと決まってしまっているから)。これは、人によってはサッカーを好きになれない理由にもなるのでしょう。私の知人はそれを、野球と違って、サッカーはどこで応援したらいいかが分からない、という言い方をします。

どちらかというとジュビロを応援していましたが、アントラーズが勝ってしまいましたね。
私のセレッソは、定位置の13位に後退してしまいました。

T(98/11/02 21:37:34)

明日は、カシマスタジアムへ「鹿島アントラーズ対ジュビロ磐田戦」を見に行きます。
サッカーに興味がない人には申し訳ない話題ですが、明日はセカンドステージの天王山です。 野球的比喩が支配する世界を相対的なものとするためにもサッカーには頑張ってもらいたい。

T(98/11/01 00:46:41)

普通に授業が成立する方が不思議という感覚は理解できます。
僕たちは暗黙の了解をたくさん持って生きています。授業を成立させているものはそうした作用のひとつだと思います。
それを僕たちは「常識」と呼んだりするのでしょう。
「常識」は多分に文化的なものだから、それを「教養」と言い換えてもいいのかもしれない。
「何で学校なんて来なくちゃいけないんだ」とか「何で授業なんて受けなくてちゃいけないんだ」っていう疑問に答えるのは結構大変です。
だから現実の高校教師は目の前にあるわかりやすい具体物にその根拠を求めたがるという傾向があります。
それが「受験動機」と言われているものだと思います。
これだってかなり曖昧なものなんですけど、とりあえず説得力があるから。
もちろんそれがいいと言っているのはありません。

T(98/11/01 00:45:33)

たまには発言しいなということで。
別にBBSを無視しているわけではありません。
でも、めんどくさいんだもん。
掲示板につないでから一度回線を切って、書き込みをしてからまだ回線をつないで、それから送信。
あるいは、あらかじめエディタで書いておいてからそれをコピーアンドペースト?
ああ、つなぎっぱなしの人が羨ましい。
Y君は自宅メーラーか。

Y(98/10/31 01:50:15)

そうだそうだ、たまにはT氏、発言しいな。
で、これは挑発でも何でもないんですが、
この間、神保町の三省堂で本を買ったら、
カウンターの向こうに、素朴な手書きのポスターで、
「塚本邦雄全集、遂に刊行!」
というのが目に入りました。
しかも、その発行元が、僕が以前勤めていた
「ゆまに書房」という出版社で、
「ほえ〜、こいつらもがんばってるんだ」
と、思った次第でした。

吉田(98/10/29 18:44:44)

モラルの問題は「教養とはなにか」の作者によれば教養の問題ということなのでしょうけど、普通にクラスが維持されることの方がむしろどうして可能なのだろうか、ということは、Tさんからたまにはコメントをもらいたいと思います。

K(98/10/29 11:46:56)

一昨日、会社の連中がお遊びでやっているサッカーの試合に出ました。25分ハーフで1試合やったのですが、いまは筋肉痛で、体ぼろぼろです。しかし面白かった。私は基本的に体を動かすことが好きです。だからYさんには、一度山登りに誘ってほしいですね。
サッカーは、子供も大好きで地域のチームに参加していますが、近所にはセレッソ大阪があって、家族でそこを応援しています。
サッカーの方が、野球より面白いと最近は思うのですが・・・

2004/12/06号掲載

K(98/10/29 11:07:06)

発言の下の空白が、さみしさを募っていますね。卓抜な表現力。

以前に吉田君が、小学生の表現力の定価の話に関連して小学校の荒廃のことに触れていましたが、それはNHKの特集番組のことではなかってですか?先日、たまたまその番組の再放送を見たのですが、そこでは小学校1年生のクラスで数人の徘徊など授業を妨害する生徒のために、受領が成り立たなくなっている様子が写されていました。

小学1年生のことであるから、おそらくは本人に授業を妨害しているという意識すらあるかどうか分からない。中学年になれば、働くであろう自分が規則に反しているという自覚というものが存在しているのかどうかも分からない。いや、番組の中では、本人がいけないことの自覚はある様子が写されてはいましたが。

そのクラスの様子を見ていて浮かんだ感想は、普通にクラスが維持されることの方がむしろどうして可能なのだろうか、ということでした。

こうした崩壊現象のことが、最近保険の取り付けや、掲示板(BBS)の中の減少に関連して、モラルハザードという用語で語られることがありました。

それに対して、発言がなくなってしまう状態というのは、トマス・ピンチョンが描くところの熱死(エントロピーゼロ)状態でしょうか。

Y(98/10/28 22:38:29)

いろいろなことを書いても、結局K氏以外まともな答えが返ってきません。
このまま、この電子同人誌は終わってしまうんでしょうか。
さみしいですね。 






K(98/10/28 18:41:32)

『最終講義』を読みながら、分裂病患者に寄り添っていきる人生というのは、どういうものだろうと考えてみました。

まず、会社の中で、会社の仕事をしている以上、会社の利益に結びつかないことには、意味がないことになります。

いまの社会の風潮は、過酷な競争原理に堪えられければ淘汰されるのは当然で、この競争原理が、社会を発展させるのだ、というものです。

その時に、極端な例かもしれないけれど、分裂病の患者の存在というのはどうなってしまうだろうか、と考えてみたのです。

ある種の人々からすれば、彼らは社会の負の資産で、それを最小コストに抑えることが課題となるのかもしれません。

ちょっと簡単に答は出ないけれど、人間だから保護する必要があるという安易な意味ではなくて、そこに寄り添うこと自体 に、何かプラスの価値があるように考えているのですが、やっぱり答えは持ち越すことにしましょう。

K(98/10/28 18:31:32)

「犬は吠えても歴史は進む」というのは、犬が吠えようが、そんなことに関係なく歴史は進むと言うことでしょうか。

K(98/10/28 18:26:06)

『最終講義 分裂病私見』を読み終わりました。中井久夫は『分裂病と人類』で感銘を受けた精神科医ですが、風景構成法という心理テストを独自に開発して分裂症の治療に応用したことでも知られています。この風景構成法は、過日話題になっていた統合HTP試験とかいう心理テストと良く似た患者に絵を描かせる試験です。HTPは「家と木と人」を描いてもらうテストで、風景構成法の方は、「川、山、田圃、道、家、木、人、花、動物、石や岩」の10のアイテムを読み上げながら描いてもらって、最後に自由に絵を完成してもらうというテストだそうです。

分裂病の患者にこのテストをしてもらうのは、最初はやっぱり無理だそうですが、いろいろな絵の形を経て、次第にパースペクティブ(整合的な広がりと奥行き)を獲得するようになるそうです。このパースペクティブは発達的にいえば大体小学4年生ぐらいから出来るようになるものだそうです。

この本の中では、分裂症が急性症状期とその回復期という時間軸の中で捉えられていて、この回復期の対処を間違うことによって慢性化が生じるという理解がされています。その点で分裂症をそもそもが回復の難しい頑迷な病気だと理解していた素人の思いこみを修正されました。

K(98/10/24 20:31:30)

今日は、国立民族学博物館に「草原の遊牧文明 大モンゴル展」を、見に行ってきました。

博物館のレストランでは、何種類かモンゴル料理も出していたのですが、私が頼んだモンゴルうどんは、羊の肉の臭いがきつくて私には駄目でした。羊の肉の料理がメインになるのだったら、ちょっとモンゴルで暮らすのは自信がないなあ。展示の内容もいつものことながら「大」と名打つ程のものでもないような気がするのですが、日に何回か「草原の風」という若手の音楽団が演奏があって、これはなかなかの感動ものでした。馬頭琴のもの悲しい調べと、耳目を驚かせるホーミーという独特の吟唱と、追分けの節回しに似ると言われるけれどその何倍も良いと思ってしまうオルティンドーという女性の唄。正しく大草原を渡る風が体の中を吹き渡っていくような感動です。何か、体の中にある古い記憶を呼び覚まされるような気がしました。CDがあったら買いたいと思いました。

大モンゴル展についての情報はhttp://tenger.minpaku.ac.jpで見ることが出来ますので、覗いてみてください。G氏が確か、司馬遼太郎が書いたモンゴル紀行か何かが面白かったと言っていたように思うのですが・・・。

K(98/10/24 02:13:07)


最終講義
分裂病私見

中井 久夫



Amazonで詳しく見る
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前に彷徨群と書いたのは、冗談ではなく、本気で間違えてしまったのですが、正しくは、咆哮群でしたね。そういう名前の文芸サークルが、このメールマガジンの母胎になったのでした。大平原で出会うには彷徨する方がいいかもしれないけど。彷徨して咆哮するか。

さて、きっと護法氏も買っていると思うけれど、中井久夫の『最終講義』を読み始めています。神戸大学を退官したときの講義ですが、その後、この人は甲南大学の人間科学科にいるそうですね。今更ながらに心騒いだりしています。

K(98/10/23 19:32:45)

こうしたBBSのような場所で、ハザードを経験するというのは、ありますよね。経験した人は、独特の構えというのを持つようになりますよね。

それは、書き言葉と会話との間の関係にもあるように思うのですが、最近も海外の人と契約にまつわるやりとりをしていて、(海外の人とやりとりをしていると、かならずレターの形にして、後で言質をとれるようにするのが鉄則になってしまうのですが)、相手の文面を見ていると、こいつは喧嘩を売っているのかという感じで、だんだんエスカレートしてきたのですが、向こうに行って、本人会うと、それは弁護士を介していたので、余計に増幅されていたのですが、本人は決して、けんか腰ではないわけです。

それにそもそも日本人は、意見を言うと個人的に反対されているように感じてしまうところがあって、自分自身にもそういうところはとってもあるのですねえ、困ったことに。

K(98/10/23 19:19:30)

資本主義のもとになっているもの、市場経済の市場というのは、もともとの共同体の中では完結しない、共同体と共同体の間を繋ぐものとして、例外的に設けられたものが、次第に定期化し、定位置化して、共同体の中に埋め込まれて来たものでしょう。

中上健次の物語の中には、紀州の村をめぐる商人が出てきて、それと修行の人ですね。どっちもいかがわしい。それが物語を紡いでいるようなところがある。そのいかがわしさは、もともと市というものに存在したいかがわしさで、G氏のいっているのは、そういうのに近くないですか?

K(98/10/23 19:06:49)

「MORISSON HOTEL」というのは、何でしょう。

G氏の言われることは、ようわからんので、つづきを待ちたいと思いますが、といってもつづきがないことも多いので、さらに混乱をまねくようなことを書くと、島田雅彦が20世紀はアメリカの世紀だったというようなことを言っていますね。福田和夫との対談で。それで福田和夫も、現代の問題は、19世紀的なヨーロッパの洗練された文化的ヒエラルキー、差別化が存在しなくなったことだというようなことをいう訳です。21世紀がアメリカの時代だというのは分かるような気がするし、それがヨーロッパの没落によってもたらされたというのも分かるような気もしますが、それを文化的な差別力のようなことの理由で語られると、むしろそうした文化的な差別化を生み出していた下部構造の方が、といったマルキストみたいなことを言いたくなってしまいます。

Y(98/10/23 01:14:02)

G君、久しぶり。
こんなことは誰でもが言ってることだから今更ながらという感じですが、20世紀型の社会主義の破綻は、「理性」が「人間」の「本性」足り得ないという現実を想像できなかったことに起因しますよね。それは近代西洋哲学の破綻とも繋がるわけですが。
しかし、たとえばこの電子ネットワーク社会。その中で幾度か感情的な関係の破綻を経験した僕からすると、ここでは「理性」というものが、まったく純粋培養的な働きで、関係を活性化させたり、また、崩壊させたりする。これはもしかしたら近代が希求していた「理性」なるものを究極に押し進める装置なのかもしれませんよね。
でも、やっぱり「理性」は辛い(耐え難い)。それを耐えた先の大平原とは、何なんでしょうね。涅槃なんでしょうか。カワネズミの生きる社会は、孤独な生があくまで生きるための戦いとしてあるのではないのですか?(知らないから聞くのですが。)
僕も年に一度は北上山系の中に入るのですが、そこに見える動植物の生って、資本主義でも社会主義でもないように思うのですが。

G(98/10/23 00:14:14)

「MORRISON HOTEL」を聞きながら。したたかに酔って。大平原を過ぎっている。カワがうねうねと流れている。人が向こうからやってくる。俺はそいつと微笑みを交わす。

例えばカワネズミを見ていると、そいつはそんな風に活きている。そこは「疎」でありそいつは孤独である。一方、俺は東京の中小企業で働く。俺の一挙手一投足は「社会」的な意味をもつ。そこは「密」である。

ミツバチは「社会的動物」といわれる。しかし、ほとんどの動物はカワネズミのようである。

孤独を生きている。

ミツバチが生きている「社会」は、社会ではない。それは共同体である。

「疎」であることが社会の条件であり、「密」であることが共同体の条件である。

最近の世の中を見ていると時々思う。21世紀は社会主義の世紀である。

1年ぐらい前にそのことを口にすると、みんな笑った。ちょっとした胡椒の効いたジョークのように聞こえたのだ。最近は、それが冗談で通らない。みんなまじめな顔をする。本当にそうなりそうだからだ。

スター・ウォーズの帝国軍と共和国軍。「帝国」は社会主義である。

時々思う。人間理性の本性を思えば資本主義の時代というのはちょっとした思い違いが産み出したバイバスであって、社会主義こそが本道である。日本共産党はいった、「犬は吠えても歴史は進む」。

それは、耐え難い道だ。社会主義は耐え難い。しかし、資本主義はその耐え難さを救ってはくれない。資本主義は亜流の社会主義である。そこには、大平原での出会いはない。

モンダイは、地球が狭すぎることなのか。つづく。

2004/11/15号掲載

Y(98/10/20 02:29:01)

吉田氏曰く、

「読みながら、ほとんど自分がこの『彷徨う日々』という小説を書いているかのような感覚をおぼえました。」

それそれ、それは凄くよく分かる。リアルだよ、君!

いろんな人にいろんな小説の読み方(つき合い方)があると思うけど、私などは、結局そういう琴線の触れ方が、小説の場合、一番大きなことかもしれない。(今、酔ってるので、当てになりませんが。)

吉田(98/10/19 21:38:10)

『吾輩は猫である』殺人事件
奥泉 光

新潮社
1999-03

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しばらく前に、小林恭二『悪夢氏の華麗な事件簿』というのを読んで、うーんどうなんだろこの人は、と思っていたところでした。でも三島賞っぽいですよね、賞をとるとしたら。

同じように、うーん…と思う人に、奥泉光という人がいます。『プラトン学園』を書いた人で、今、『吾輩は猫である殺人事件』を読んでいるのですが、けっこう(物理的に)重い本で、これは本当に面白いんだろうか、と迷いながら読むので、なかなかページが進みません。こういうのは、「小説を読む快感」からは、ほど遠いだろうなあと思う。

ところで、『彷徨う日々』は、私にとって、小説を読む快感を久しぶりに味あわせてくれる小説だったのです。まったく個人的な感覚なのですが、読みながら、ほとんど自分がこの『彷徨う日々』という小説を書いているかのような感覚をおぼえました。不遜な言い方で恐縮ですけど。

K(98/10/17 20:18:11)

鈴木光司を含めて、たまに大衆文学とか直木賞の対象になるような小説を読むと、その対照で「文学的」なるものの意味が分かるような気がするときがありますね。大衆文学と純文学を差別したいとはちっとも思っていないのだけれど、この違いについてははっきりさせておいたほうがいいような。

小林恭二も梁石日も読んでいないですが、そういわれると『血と骨』を読んで見たくなりますね。『レディージョーカー』と『血と骨』で今年は決まりという台詞をどこかで聞いた様に思うのですが。

Y(98/10/17 18:52:38)

カブキの日
小林 恭二


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愛読者の方には恐縮ですが、新聞の書評にノセられて“ポストモダンブンガクの旗手”であるそうな小林恭二氏の『カブキの日』を読んで驚いてしまった。これが三島賞? なんで? 誰か教えて。なんだか、私には良くできた漫画の原作のようだった。そういえば、鈴木光司氏の作品も、私には、映画化される以前からすでに映画化を措定された原作を読んでいるような印象だった。

最近注目される小説にはどうもそういうタチのものが多いように思う。いずれも発想の面白さから、読んでいてつまらなくはないが、小説を読む快感から何か遠いのだ。

しかし、梁石日氏の『血と骨』は、昨今珍しくその種の快感を堪能させてくれた。この差はなんなんでしょう。単なる趣味の違いでしょうか。

K(98/10/17 16:46:39)

吉田君は、『彷徨う日々』が面白くて、その他の本があまり面白くないと言っていましたが、僕は『黒い時計の旅』の方が面白いぐらいに思いました。『彷徨う日々』も面白かったですけれどね。

Y(98/10/15 22:23:16)

Kさん、「寡黙なパンティ・パニック」は凄いことになってきましたね。次なるドキュメントを待つ。

K(98/10/15 02:57:49)

ウィーンの遊園地の名前は、プラタでした。プラタの遊園地は『黒い時計の旅』にも何度も出てきました。

K(98/10/15 02:55:16)

今、パリからです。
吉田君、メールでいろいろ書きましたが、案内送り直してくれたのですね。URL分かりましたので、ありがとう。

寒いと聞いたパリですが、それほどでもありせんでした。けれど、心は寒いです。飛行機の中で、スティーブ・エリクソン(これまでスティーブンと誤記していましたね)の『黒い時計の旅』を読みました。なかなか面白かったですよ。『彷徨よう日々』は、最後の数十ページを残しています。

吉田(98/10/13 18:51:15)

読者への案内を送付しました。(執筆者各位にも届いていると思いますが)ということで、これ以降、この掲示板は、内輪向けではない、オフィシャルな場となります。

K(98/10/13 12:01:46)

今日、いつものように大阪駅から快速の古い車両に乗って元町まで行こうとしていると、通りがかった車掌が、隣の向かい合って座る箱形の座席(誰も座っていなかった)をのぞき込んで、二度ほど不快そうに舌打ちして、けれども結局何もせずに離れていくので、ある予感に惹かれながら背もたれ越しに隣の席を覗くと、あったのでした。女性もののパンティが。ひとつ、ぽつんと、こんどはパンティストッキングはなく、それだけで。

後から来た一人の男性は、そこに座ろうとして諦めて別の席に移動して、その後二人づれで来た男性は一度舌打ちしてから、それを座席の下に捨てて座ったのでした。

K(98/10/12 18:46:26)

「個人」と「社会」についてはまた今度。

2004/11/08号掲載

吉田(98/10/12 11:26:14)

「個人」の対として前提される「社会」とは、全体性なき全体性のような、例の「世間」というやつだと思うのですが、社会学ではこれについてあまりふれられず、それとは別の「社会」が仮設されているという印象があります。あるいはごっちゃになっているのか。

K(98/10/09 12:09:08)

朝日新聞の映画評で浅野潜という男が、ロバート・レッドフォードをクリント・イーストウッドと比較するという愚行を行っている。
この男には、前にも『大いなる遺産』という映画の新作が、才能ある画家の絵を画面に取り入れることによって、前作をしのぐ作品に仕上がったなどと書いているのにだまされて、このつまらない映画を見る羽目になってしまった。
だまされたのは、その画家の絵を取り入れることで映画にも成功したというようないいようで、今回も「お互いにしがみつくように強く抱き合う2人。その両手の指先にこもる激しい思いをなめるようにカメラが描き出すだけ、肉体の極限までの歓喜を見事に表現している」などともっともらしいことを書いている。
許せないのは、つづけて「そのことが翌日の最後の別離を、精神的でいつまでも残る意味のあるものに見せて成功しているのは、レッドフォードらしい知性の勝利である」などと書いていることだ。重ねて「肉体万能の時代だけに、観客にこびない視点の高さがイーストウッドの「マディソン郡の橋」との違いだとこの男は書いている。
イーストウッドがいかに観客にこびない知性を持った監督であるかということについては、前に書いたことがある。
いまここで書かれている『モンタナの風に抱かれて』という映画がどの程度のものであるのかは分からないし、レッドフォードの『リバー ランズ スルー イット』は嫌いな映画ではなかったし(『普通の人々』はどちらかというと嫌いだった。)、『マディソン郡の橋』の出来がいいともいわないけれど。この評価はまったく不当なものであって、以後この男の書くことは信用するに足らないと決定づけているようなものだ。
レッドフォードの知性など、エコロジーに関心がある程度のものじゃないか。こんな映画評書くなよ。

K(98/10/09 11:54:48)

横浜優勝おめでとうございます。Yさんもすっかり横浜の人ですね。
私は、昔近鉄を応援しかけていましたが、野茂がやめて、鈴木が監督になってからいやになって、以来基本的にはどこも応援しなくなりました。
そういえば、権藤監督は野茂や吉井を育てた人らしいですね。
現在は、地元のセレッソ大阪(Jリーグ)を阪神ファンのような気分で応援しています。

K(98/10/08 12:55:02)

観覧車といえば、『第三の男』の観覧車ですね、と書こうとしていたら、ようやく読み始めたスティーブ・エリクソンの『彷徨う日々』の中に、記憶を失った男が、この映画を見て、以前に見た映画の記憶を思い出すところが出てきました。

『第三の男』に出てくる観覧車は、ウィーンのナントカっていう(遊園地の専門家としては忘れてはいけない)遊園地にあるもので、この遊園地は何回目かの万国博覧会がウィーンで開かれたときに整備された由緒あるものだったのです。

今、関西ではいくつも観覧車が作られて、その高さを競っています。もうすぐ梅田のど真ん中にあるテナントビルの屋上に観覧車ができるのが話題になっています。

Y(98/10/09 01:20:41)

わーい、ベイスターズ、やらせていただきましたよ!
でも、共同記者会見の生中継を(僕の知る限りでは)TVKでしかやってなかったのは悲しい。 でも、そのあとさらに見続けてたら、ともかく延々と選手のインタビューを続けてて、圧倒されました。ローカル・パワーって、やっぱり凄いんだね。

K(98/10/08 12:06:45)

社会学の入門書によると、フランス人のコントが「社会」なるものを(何かしらの内実のあるものとして)発見して、社会学という学問が出来上がったことになっています。その場合の「社会」とは近代社会のことになると思いますが、社会学は、そういうわけで、まずは「社会」という秩序が存在することを前提する事になるわけですが、それを研究するときには、対象としてそれをどのように設定するかが基本的な問題だろうと思うのですね。
僕が蓮實さんに教わったことの一つは、全体を見渡せる人間など存在しない、そのような存在は抽象的なものだ、ということで、もし社会なるものを考えることが出来るとしても、それはあくまでも作業仮説としてのものだということを意識しているべきだろうと思うのです。
経済学が市場を対象として研究するときに、その市場なるものが、作業仮説であるように。

昨日、大学院の試験を受けてきました。出来はどうだか分かりません。
面接で近代がどうだかとか、方法論がどうだとか、いらないことをしゃべりすぎたような気がして、いやな感じです。

吉田(98/10/08 11:18:15)

MM21の大観覧車は、自転車のタイヤを転がす要領で、ゴジラが転がしていましたね。大森の「VS.モスラ」だったかなあ。全然違うかもしれません、5年位前のやつ。

Y(98/10/08 01:15:00)

なんだか YOKOHAMA WAKER の代行業者のようですが、MM(みなとみらい)21の大観覧車とは、ブラッドベリの骸骨も狂喜し、イッセー尾形の上司もワインの栓を存分に抜け、また、私自身も首都高狩場線からのその美しさに惹かれバンドのために「観覧車」という曲を作ったほどの、圧倒的な存在感を誇っていたシロモノでした。確か、辺見の「生卵」でも登場していたと思いますが、とりあえず東洋一の大きさだったそうです。ところが、あらたなアミューズメントスペースの拡張のためにと、去年後半に解体し、現在、同地域の運河の対岸に再建中です。予定では年内竣工のはずですが、まあ、この不景気の折り、多分来年中には復活するでしょう。今朝、たまたま横浜美術館の資料室に立ち寄るとき工事現場を横手に見たら、機軸になる部分は、すでにしっかりと立ち聳えていました。

K(98/10/07 18:54:36)

MM21の大観覧車というのは、何でしょうか?
観覧車については、私も並々ならぬ関心を持っております。

K(98/10/07 18:52:28)

ひょっとすると誤解させてしまったかもしれませんが、ヨー・ヨー・マのCDと映画『ブエノスアイレス』との間には、アルゼンチンという関連しかありません。
またやってしまった「暗号」という感じでしょうか?

とりいそぎ。(今日は、会社の宴会に行かなくてはなりません。)

2004/10/25号掲載

O(98/10/06 22:32:53)

S氏の乱入を歓迎します。暴れてください。

S(98/10/06 22:17:41)

精神現象学
ヘーゲル



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こんにちは、飛び入りです。
Kさん読んで見て働いて、たいへんな生活してるんですね。
いくつかの話しにコメントを付けさせてください。
・社会学について
フランス語に「le social」 という単語があります。これは通常「社会的なもの」と訳されているようです(良心的な訳者は「社会体」)。この社会的なものとは社会の内実なのですが、これが何かは日本ではあまり問われていません。日本の社会学では(ボクの習った)、社(社)に集う(会う)共同体が社会ということになっていました。これだと個人と集団という対でしか社会の内容がありませんが、欧米ではもう少しはっきりとした内容があるようです。
・長谷川宏訳『精神現象学』
ボクも最近この新訳を読み始めています。丹念に読むと怪しいところがあるらしいのですが、読みやすくて良いと思います。橋爪大三郎さんや竹田青嗣さんなんかの書いた物は分かりやすくて好きです。大須賀さんと会った「ノマドの会」にいた『論座』のナントカ君は、竹田さんなんかの「フッサール・ハイデガーの分かりやすい翻訳」は誤訳で良くないと言ってましたが、橋爪・竹田さんは分かりやすく翻訳してるのではなく、あのように理解しているのだと思います。
しかし、分かりにくい蓮實さんファンのKさんが、分かりやすさを評価しているので意外でした。

O(98/10/06 22:15:24)


心的外傷と回復
ジュディス・L・ハーマン



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近況報告
小説「ドアの近くで交わること」の続きを書くべく、ジュディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』を読んでる。面白いぞこの本は。
短編小説「水の枕」(仮題)執筆中。もうじきできる。
吉田がゲーム論で書いた、マルチ・エンディングはゲームの退屈さを救うことにならないという議論にひっかけて、マルチ・カルチュラリズム(あるいはポストコロニアル)に対する批判検討をしようと画策。その一貫としてハンチントン『文明の衝突』、小熊英二『単一民族神話の起源』など読む。
葦本氏のpoessayに対抗しpunkritique(パンク批評)というカテゴリーを考えるも、まだ内容なし。
マイラバ論執筆中。(何のことか誰もわからんだろ)
父の死について、goodby,papaというタイトルのエッセイを抗争中。いや、構想中。
吉田君、ご苦労様でした。
女性2人にほれており、四苦八苦中。
その他いろいろ。

T(98/10/06 22:02:28)

うちの奥さんが、ヨー・ヨー・マの『ソウル・オブ・ザ・タンゴ』を買ってきて聴いている。1曲目がいいと思う。誰でも思うところかも知れませんが。
実は映画と関係あるってはじめて知った。

K(98/10/06 12:04:54)

ヨー・ヨー・マの『ソウル・オブ・ザ・タンゴ』を手に入れた。
『ブエノスアイレス午前零時』も読んだので、あとはウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』を見るだけだ。

K(98/10/06 12:02:55)


らせん Hit-Bit Edition
佐藤浩市
中谷美紀
真田広之
飯田譲治
鈴木光司


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O君のおかげで『リング』も『らせん』も『ループ』も読むはめになったけど、結論から言えばもひとつだった。
にも関わらず、性懲りもなく『リング』と『らせん』の映画を(ビデオで)見てしまった。小説の細かいところをすっかり忘れてしまっていることに我ながら驚いてしまった。

K(98/10/03 15:13:55)

ブエノスアイレス午前零時
藤沢 周


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昼休みに三宮の駸々堂(本屋です。)に行ったら、(『ブエノスアイレス午前零時』で芥川賞を受賞した)藤沢周のサイン会をしていました。人が集まるのか心配してみていたら、ちゃんと列が(大した列ではないけど)出来ていたので安心して本屋をあとにしました。別にどうでもいいんですけどね。

本日めでたく『The Parallel Universe of English』を読了いたしました。最後の文章は、Leonora Carringtonという人の短いフィクションでした。
この人は、今世紀はじめにイギリスに生まれ、絵画の才能に恵まれてフランスに渡り、マックス・エルンストと同棲し、第二次世界大戦でエルンストがドイツ系だという理由で勾留されると精神に異常をきたして精神病院に入院し、やがて回復してアメリカに渡り、戦後はメキシコで各方面で活躍した人だそうです。知りませんでした。

Y(98/10/01 22:59:26)

うーん、そこまでいわれちゃうとね、こんなこと、ここに書きたくなかったんだけど、しゃーないか。
はっきり言って、平日の昼間に書き込みできる人が羨ましいの。
もうちょっと、待っててね。

K(98/10/01 13:32:37)

ここのところ社会学の勉強を続けているのですが、社会学というのは、社会という秩序を前提して、その秩序がどうのようにして成立するのかということを考える学問のようです。そしてその場合の社会とは近代社会ということになりそうです。
社会という全体性を考えることがいかにして可能なのか、というのは大問題で、結局のところ、それに対して大枠の議論を提出できたのは、社会学を作り上げたウェーバーやデュルケムの世代以降は、わずかにパーソンズぐらいで、あとは部分的な議論を積み上げているに過ぎないといわれているようです。
社会学の枠組みのひとつは、「社会対個人」ということになるのでしょうが、その時、社会という全体性をどう構想するのかというのは、難しい問題です。「個人」を考えるとき、すでに「社会」は前提されていると考えるべきでしょうが、その時、すでに社会の中にいる個人がいかにして社会を構想し得るのか、という原理的な問題が、結局のところは問われることになるだと思っています。

K(98/10/01 13:21:57)


ダロウェイ夫人
ヴァージニア ウルフ

Virginia Woolf

富田 彬



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映画の上映と併せてヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』が翻訳されたようですが、面白いんでしょうかねえ。鈴木道夫の『失われた時を求めて』の翻訳も完結したのかな。
何とかさんのヘーゲルの翻訳が話題になっているようですが、浅田彰にいわせると駄訳のようですね。仮に間違った訳でも、わけの分からない訳を読まされるよりはましなような気もするのですが。
英語に翻訳されたフランス語やドイツ語の本が分かりやすいという話はよく聞きますね。
先日もシステムという言葉が、ドイツ哲学系ではほぼ一貫して「体系」と翻訳されているが、そのために、いわゆるシステム理論との関連が分からなくなっているという話を読みました。
橋爪大三郎という人は、何よりもまず分かりやすい文章を書くことが大切だという意見の人です。私も基本的にはそう思うのですが、分かりにくくならざるを得ないというケースもあるような気はします。