K(98/11/10 17:55:19)
ゆで卵 辺見 庸 ![]() by G-Tools |
昨夜、テレビを見ているととなりで妻が朝食に使うためにゆで卵をぽくぽくと潰していて、その臭いをクサイと思った瞬間に辺見庸の『ゆで卵』のことを思い出した。
実は私は『ゆで卵』という作品はよくないのではないかと思っているのですが、その理由は以下の通り。
この小説のミソは、ゆで卵の臭さと女のあそこの臭いと地下鉄サリンの事件の当日に嗅いだサリンの微かな臭いとを重ね合わせているところにあって、地下鉄サリン事件という大きな社会的事件を扱いながら、あくまでも肉体的感性的レベルから離れず、そこに執着するというところに主張があるのでしょう。男はしたたかに酔った徹夜明けに事件に遭遇し、その後、愛人の家に転がり込む。この小説で、象徴的な敵として描かれているのは、事件に遭遇したときに助けた被害者の外国人(西洋人のチーズ的腋臭がする)を道に座らせて横でタバコを吸っていると、病人の横でタバコを吸うのは止めなさいと非難するオバサンであると思われます(竹中が荒木をモデルにして撮った映画(『東京日和』でした?)で地下鉄の中で写真を撮っていると変態だと言って警察に突き出すオバサンが出てくるけれど、これも同類でしょう)。
抽象的な正義に対するファシズム的傾斜に対して生理的に嫌悪を感じるというのは、動機としてよーく理解できる(この辺の感性は桜井哲夫にも通じるのかもしれない)。けれども、思うに作品としてこの小説に難があるのは、背景となっている地下鉄サリン事件が描かれていないというところだと私は思うのです。あくまでも地下鉄サリン事件が対照物としてあるからこの作品は成り立っているのだと思う。にもかかわらず、地下鉄サリン事件自体は抽象的なままだ。これはやっぱり問題だと私には思われます。
男と愛人は事件の翌日、愛人の思いつきで近くのお寺に被害者の供養に出かける。お参りの後、女は男を墓場に引っ張っていって、そこで事を交える。墓の陰で、女にのしかかりながら見上げると暗闇に東京タワーが巨大な灯明のように浮かんでいるというイメージは『アンダーグラウンド』的猥雑さで、中でも悪くないシーンだと思いました。

SlappHappyの新譜「ca va?」を買いました。古い録音のものを拾ったりもしているのですが、なんと新曲もあります。詳しいクレジットはないのですが、オリジナルの3人しか参加していないようです。というか、3人で全部やっちゃったみたいですね。
『トレインスポッティング』は僕もどうってこつないなと思いました。感心しないというほどでもなかったですが。ウッディ・アレンの『世界中がアイ・ラブ・ユー』を見ましたが、これはなかなか良かった。ああ、がんばっているなあ、とホッとした気分になるのは、どういう訳なのでしょうか。
玉木正之というスポーツライターがいて、日本の何人かの監督は、野球を「仕事」と呼ぶと言っています。2番バッターは2番バッターの仕事をしろ——というような言い方。その筆頭にあげているのが広岡達朗であるのですが、ともかく、それは子供の頃の草野球の世界にはふんだんに漂っていた爽快感や開放感とは異質の世界でしょう。
さて、『アンダーグラウンド』はユーゴ出身のエミール・クストリッツァ監督の作品。この監督は『パパは出張中!』という映画でカンヌのグランプリをとっていますが、私は未見で、監督についてはあまり良く知りません。映画は、旧ユーゴスラビアの歴史を背景に描かれていますが、同じ時期にテオ・アンゲロプロス監督が『ユリシーズの瞳』で、ハーベイ・カイテルがバルカン半島をさまよう映画を撮りました。僕は、個人的にフランスの会社に旧ユーゴ出身の人(父親と母親がそれぞれクロアチア人とセルビア人だったと思う)がいたので、旧ユーゴスラビアのことが気になっておりました。
『アンダーグラウンド』は最初は騒々しいと思いましが、そのうち説得されてしまいました(その騒々しさというのは、ちょっとフェリーニに似ていますが、フェリーニが叙情的だとしたらクストリッツァは叙事的です)。最後の川のシーンでは、ジャン・ビゴの『アトランタ号』を思い出して、涙ものでした。
この間、『アンダーグラウンド』っていう映画をビデオで見ました。ユーゴスラビアが舞台になっている映画です。監督の名前は忘れました。
だいたい管理術の話だったりしてね。
どうしてこう俺は、電藝の趨勢と逆行っちゃうんだろうね。このところ、サッカー優位論が展開されていますが、ゲームとしての野球の話じゃないんですが、2週間前の土曜日トイザラスで野球のグローブを発見した瞬間からムラムラと息子どもとキャッチボールがやりたくなって、初めは「クリスマスに買ってやるぞ」と言っていたんですが、そう言ってる自分がどうしても欲しくなって、結局翌日曜日になけなしの小遣いから大枚はたいて俺と息子二人分、計3つの本格的な革のグローブと軟式ボールを買って、早速広い公園でキャッチボールをやったのです。それが、予想通り、いや、それ以上に良くって、あの軟式ボールが革のグローブに入る瞬間の「ピシッ、ピシッ」ていう音が、もう、たまらない! なんとも言えない快感なんです。俺は思わずその日の日記に書きました。「キャッチボールは偉大である」と。以来、ここ数回の休日は、幸い天気も良かったので、毎日子供とのキャッチボールで半日を過ごしているのです。キャッチボールって、何時間やっても、なぜか不思議に飽きないんだよね。結構汗かくし。俺はキャッチボールに目覚めた。キャッチボールは究極のスポーツです。
辺見庸の「ゆで卵」と宮部みゆきの『理由』を読んで、ジョン・ウー監督の『フェイス/オフ』とウッディー・アレン監督の『世界中がアイ・ラブ・ユー』を見ました。
この間、神保町の三省堂で本を買ったら、
モラルの問題は「教養とはなにか」の作者によれば教養の問題ということなのでしょうけど、普通にクラスが維持されることの方がむしろどうして可能なのだろうか、ということは、Tさんからたまにはコメントをもらいたいと思います。
小学1年生のことであるから、おそらくは本人に授業を妨害しているという意識すらあるかどうか分からない。中学年になれば、働くであろう自分が規則に反しているという自覚というものが存在しているのかどうかも分からない。いや、番組の中では、本人がいけないことの自覚はある様子が写されてはいましたが。
『最終講義 分裂病私見』を読み終わりました。中井久夫は『分裂病と人類』で感銘を受けた精神科医ですが、風景構成法という心理テストを独自に開発して分裂症の治療に応用したことでも知られています。この風景構成法は、過日話題になっていた統合HTP試験とかいう心理テストと良く似た患者に絵を描かせる試験です。HTPは「家と木と人」を描いてもらうテストで、風景構成法の方は、「川、山、田圃、道、家、木、人、花、動物、石や岩」の10のアイテムを読み上げながら描いてもらって、最後に自由に絵を完成してもらうというテストだそうです。

中上健次の物語の中には、紀州の村をめぐる商人が出てきて、それと修行の人ですね。どっちもいかがわしい。それが物語を紡いでいるようなところがある。そのいかがわしさは、もともと市というものに存在したいかがわしさで、G氏のいっているのは、そういうのに近くないですか?
「MORISSON HOTEL」というのは、何でしょう。
G君、久しぶり。
「MORRISON HOTEL」を聞きながら。したたかに酔って。大平原を過ぎっている。カワがうねうねと流れている。人が向こうからやってくる。俺はそいつと微笑みを交わす。
スター・ウォーズの帝国軍と共和国軍。「帝国」は社会主義である。

鈴木光司を含めて、たまに大衆文学とか直木賞の対象になるような小説を読むと、その対照で「文学的」なるものの意味が分かるような気がするときがありますね。大衆文学と純文学を差別したいとはちっとも思っていないのだけれど、この違いについてははっきりさせておいたほうがいいような。

吉田君は、『彷徨う日々』が面白くて、その他の本があまり面白くないと言っていましたが、僕は『黒い時計の旅』の方が面白いぐらいに思いました。『彷徨う日々』も面白かったですけれどね。
今、パリからです。
観覧車といえば、『第三の男』の観覧車ですね、と書こうとしていたら、ようやく読み始めたスティーブ・エリクソンの『彷徨う日々』の中に、記憶を失った男が、この映画を見て、以前に見た映画の記憶を思い出すところが出てきました。
わーい、ベイスターズ、やらせていただきましたよ!
なんだか YOKOHAMA WAKER の代行業者のようですが、MM(みなとみらい)21の大観覧車とは、ブラッドベリの骸骨も狂喜し、イッセー尾形の上司もワインの栓を存分に抜け、また、私自身も首都高狩場線からのその美しさに惹かれバンドのために「観覧車」という曲を作ったほどの、圧倒的な存在感を誇っていたシロモノでした。確か、辺見の「生卵」でも登場していたと思いますが、とりあえず東洋一の大きさだったそうです。ところが、あらたなアミューズメントスペースの拡張のためにと、去年後半に解体し、現在、同地域の運河の対岸に再建中です。予定では年内竣工のはずですが、まあ、この不景気の折り、多分来年中には復活するでしょう。今朝、たまたま横浜美術館の資料室に立ち寄るとき工事現場を横手に見たら、機軸になる部分は、すでにしっかりと立ち聳えていました。
ひょっとすると誤解させてしまったかもしれませんが、ヨー・ヨー・マのCDと映画『ブエノスアイレス』との間には、アルゼンチンという関連しかありません。





